高校のとき、お金・地位・名声を極端に求める人たちは寂しいからではないか、ちょっとニュアンスは違いますが、アグレッシブにNo.1を求める人たちも“寂しさ”を原動力にしているのではないか…、私は“ここにいる!”~“生きていたんだ!”というような心の奥の叫びに突き動かされているのではないか…と思うようになりました。英雄と言われる人たちにもそういう要素があるのではないだろうかとも思いました。勿論、何か別のことsomething elseに突き動かされ、結果として偉人と言われるようになった人たちもたくさんいて、そういう人々は尊敬に値すると思っていました。若い時は皆そうかもしれませんが、善と偽善の紙一重のところには敏感でした。さすがに鞍馬天狗に憧れていた私としては名声や地位を追い求めたくなかったのは言うまでもありません。今はその辺は大変緩くなっていて。今なら、“寂しさ”からであれば許せるような気がします。
そういう私も、誇大妄想の時は、注目され尊敬され愛される時の人々や歴史に残る人々と自分を比較したり、ジェラシーを感じるときがありました。悪いことではなく自然なのですが、一番になりたい、ヒーローになりたい…と密かに思うときもありました。やはり寂しさを感じていたからでしょうか。まだ、現実も先も見えていない私でしたが、残念ながら、そういう人々のように成きることができそうもないとも思いました。躁鬱のように、今度は不安の時が来て、誇大妄想と不安の往復でした。その後社会人になっても認められたいという気持ちは強くなったと思います。